道産子エンジニア

悲観主義は気分に属し、楽観主義は意志に属する

平田オリザ「わかりあえないことから コミュニケーション能力とは何か」を読んだ。

先輩から勧められて読んだ本だった。ちょうど先日、サイコパスを見に行った時に、「幕が上がる」という映画の告知を見て(ももクロが出演するので)いたのだけど、あれも平田オリザが原作らしいのでより一層見てみたいなと思い始めた。しかもしかもまたもや監督は「踊るシリーズ」の本広克行さん! こういう偶然の重なりは偶然ではなく、最近は自分の成長だと感じる。本を読まずに、サイコパスを見ずに告知を見ても気にも留めなかっただろうが、平田オリザを知っていたから、ドミネーターにうはうはしていたから、脳が反応してくれたのだ。もちろん、運命のように感じて鳥肌は立つのだけど。

なんでこの本を読むことになったかというと、最近はチーム開発で四苦八苦していて、なんでこんなに自分も含めた周りの人間は自分勝手なんだろうと思っていたとき、先輩と飲んで勧められたからなんだ。人をうまく遣う技術とかはあるのだろうけど、そういう小手先の技術ではなく、何故コミュニケーションがうまくいかないのか理解したかった。本を読んでからは、だいぶ気が楽になった。

つまり「人はわかりあえない」んだ。と自分が納得し始めたからだと思う。これはコミュ障だから人に自分をわかってもらえないとか、コミュニケーションをとることをあきらめたわけではない。それぞれの人生、それぞれの文化の中で生きてきた人間同士が本質的にわかりあうのは無理なんだということ。それでも社会の国際化や多様化、インターネットを通じたコミュニケーションが増えてくると、これまで絶対になかった接点が生まれてしまう。だからこそ、「わかりあえないこと」を前提に相互に気を置きながらコミュニケーションをとって、仕事をして、生きていく必要があるんだ。そう気づかされた本だった。平田オリザさんを全面的に肯定するわけではないのですが、すごい学びがあった本だった。

「シンパシーからエンパシーへ」ここで言うエンパシーとは、「わかりあえないこと」を前提に、わかりあえる部分を探っていく営みと言い換えてもいい。

大学で何を学ばせるべきか

冒頭で平田オリザさんの意見に同感できなかったのは、

これは極端な物言いだが、それほどに学校教育の内容と、企業の要求がずれてきているのだ。もちろん、大学が企業の要求にすべてあわせて人材を育成しなければならないと言っているわけではない。大学の役割は、たしかに他にもあるだろう。しかし、社会の要請に応じて、教育のプログラムも変わっていくべきなのだが、それがまったくなされていないことは、やはり大きな問題だ。

という主張だ。僕が自分の大学で出会った先生達はこういう主張を皆さん否定すると思う。なぜなら、学長が全く反対のことを仰る方だったから。大学は社会の要請に応えるべきではないと思う。社会に求められる人材を育てる場所でもないし、就活の方法を教える場所でもないし、何か決められたことを教える場所じゃないんだ。学問とは何か、学ぶ姿勢、学ぶ苦しさ、学ぶ楽しさ、そういうものを学ぶ場所だ。自分も真面目に勉強してたほうじゃないけどそう思ってる。

コミュ障になりたい

そもそもコミュニケーション能力は異文化理解能力のことであり、演劇の力を用いて高めていけるというのがオリザさんの主張である。今後の社会ではこれが求めていかれるから、理解できないことを前提に身につけていこうという。だが自分は最近、コミュ障になりたいと思っている。人間関係をうまくやるのは多分得意だ。けど、人に流されやすくなってしまっているのもまた事実だと感じている。自分の嫌いな集団行動的なやつだ。嫌いじゃないのだけど毎週末誰かと一緒にいる予定があると憂鬱になる…その人が嫌いなわけではなく1人の時間が欲しいんだ。思考するのに自分で瞑想に更けるのが大好きなんだ。議論や意見交換はそのあとで良い。人と飲んでて話をするのも得意だし、心から楽しく過ごせるんだけど、2週間に一回くらいは1人で好きなことをしていたい。だから、あえて空気が読まない行動、ノリの悪い行動をとりたいと思ってる。もちろん仕事ではそうしないし。

コミュ障を使いこなすネオ引き籠もりになりたい。(何言ってんだ)

話しているときに同じことを言っているなって思うのが大切

これは先輩が言っていた話をミックスしてるのだけど、自分が相手を全然知らない人、覚えてもらいたい人、相手に興味があって何かを得たい人とかいると思う。そういう人に憧れて飲みにいったり飯にいったり接触する機会を増やしていると、確かに「あ、これ前にも聞いたな!」って思う瞬間があって納得した。そういう風になればその人から自分は確実に何かを学んでいるし、相手も自分を認知して、その時のコンテキストから思い出したりしているんだなって思うんだ。

この本で、

私たちが、「あの人は話がうまいな」「あの人の話は説得力があるな」と感じるのは、実は冗長率が低い人に出会ったときではない。冗長率を時と場合によって操作している人こそが、コミュニケーション能力が高いとされるのだ。

って部分があってなるほど納得した。大体酔っぱらってるときにこうやって思うことが多いんだけど、もう大人になって、育ってきた環境も学んできたことも、生き方も全然違う人と接しながら生きていくにはこういうヒューマンエラーが発生するのは当たり前だよね。大事なのは、自分が前と同じこと言ってるなって気づいて、その時々のコンテキストに合わせて、冗長だけど退屈じゃない話ができるかってことと、相手が同じこと言ってるって気づいたときに自分が新しい何かを学べるかってことじゃないかな。言語化すると自分の考えがまとまってくるし、頭の中に定着してくるし、また新しい答えが見つかる。

異なる価値観と出くわしたときに、物怖じせず、卑屈にも尊大にもならず、粘り強く共有できる部分を見つけたしていくこと。

うん、つまりそういうこと。

これまで自分が思っていた、自分は常に変化しているということのヒント

毎日細胞分裂をしながら生きている自分が、常に同じことを思い続けるわけがないし、信念はあっても明日には言ってることが変わっていて当たり前だと思うという話をよくする記憶がある。オリザさんは本の中で

人間もまた、同じようなものではないか。本当の自分なんてない。私たちは社会における様々な役割を演じ、その演じている役割の総体が自己を形成している。

と書いている。あぁ、そういうことなのかなって思ってきた。例えば良く遊んでる友人と別のコミュニティで会話をするときに、「お前いつもと違うよな」ってのはまさにこれだと思う。みんな自分の役割を使い分けている。それが本能的に必要だって気づいてるんだろ?自分が日々違うことを言っているというのは感覚の問題なのかもしれない。自分という個はそれらの集合の中で、自分同士の共通点、自分らしさを見つけていくことで気づく。もっともっと沢山の役を演じて、まだ見ぬ自分に出会いたい。

幕が下りるまではどんな嫌な奴とでも、どうにかして仲良くする。

これもそうだと思う。この人とは仕事上の関係だ!って割り切ることも重要だし、本音をみんなに言ってるやつの方が信じられないよなって思うわ。それほんとに本音?みたいな。周りに関西人が多いせいもあるのか、本音と建前的なものが少しずつわかってきてる。あぁ、もうこれ以上はやめておこうって自制心を持てる。

最後に

人生は、辛く哀しいことばかりだけれど、ときに、このような美しい時間に巡りあえる。普段は不定形で、つかみ所のない「学び」や「知性」が、あるときその円環を美しく閉じるときがある。その円環は、閉じたと思う先から、また形を崩してはいくけれど。

学びの多い、良い本だった。ご紹介ありがとうございました。時間があれば是非。